風の声を聴く

第7回

2021-08-19

 

フォーウインズ・トレジャー

新宮一夫 学会員・出雲市

​<保育とマスク>

2020年4月のこと。乳幼児精神保健の勉強会を続けている遠隔地N市保育園の乳児クラス担当の保育士から便りが届いた。保育者がマスク着用のもと、子どもたちには目の部分しか見えていない状況で、今後どのような影響が予想されるか。保育では何に気をつけたらいいだろうかと。期せずして地元の保育園でも同じような相談を受けていた。特に0歳児クラスで食育指導に苦労が多かったようだ。「お口モグモグ」をどうしたら伝えることができるのでしょうかと。おそらく、どこの保育園や乳児院などの施設でも共通の悩みがあったに違いない。

そして、慣れ親しんでいる保育士の顔が突如マスクに覆われておっかなびっくり泣き出していた乳児たちだが、数か月もすると次第に慣れていった。ところが今度はマスクを外した顔を見て泣き出してしまう子どもが現れる始末。これには保育士たちも苦笑せざるを得なかった。声を聴かせると不思議そうな顔をして保育士を見つめ、やがて泣き止んだ。 また、保育士の顔を確かめようとマスクを外そうとする年少児の姿もあった。歌うとき、保育士がマスクをつけているとほとんどの園児は歌わなかったが、マスクを外すと生き生きと歌いだした。同様に話を聴く集中力にも大きな違いが見られたという。

 

「お口モグモグ」が伝わらない困難さは深刻だった。当初は噛まずにまる飲みをする子どもが多くなった。喉につかえては一大事だから食の素材を細かくきざんで調理しなければならなかった。モグモグ指導では透明のフェースガードを手作りして口元の動きが見えるようにしたところ、徐々にモグモグができるようになった。

保育現場のこうしたエピソードと様々な工夫は、おそらく日本全国のいたるところで展開している風景であろう。あれから1年のときが流れ、今あらためて現場の保育士たちは口元や口回りの動きが連動して織りなす表情の大切さを知ったという。ことわざ、「目は口ほどに物を言う」は、乳児との関係性を育む世界にあってはマスク着用では難しいものがある。ある保育園の園長は、乳児クラスの成長を見ていると少し表情が乏しいような印象を受けているという。

 

​<保育士が感じている本音>
これは余談ですけどと保育士は控えめに語った。「保育園を利用している保護者は生活の厳しい方、医療従事者の方、いろんな事情で子育てのしんどい方といろいろです。

 

制約のかかった仕事のなかで乳幼児の子育てを抱える養育者たち。今回の有事において、私たちが最後の砦の一端を担っているという使命感のようなものを感じています。と同時に万が一、戦争が起こっても政府は保育園を開け続けるのだろうという思いが頭をよぎりました」。

これを聴いたとき、私は阪神淡路大震災の復興作業で地域の保育園が果たした役割の大きかったことを思い出した。あのときマスコミに取り上げられることはほとんどなかったのだが、震災と火災の被害が最も激しかった長田区でも、建物が残った保育園は開園して子どもを預かった。そのお陰で親は片付けや復興の作業にかまけることができたのである。平時ではもとより有事にあってはなおのこと、養育者の子育てを支えている保育園の存在意義の大きさをあらためて思った。

<フォーウインズ・トレジャー>

「FOUR WINDS」。学会員でない読者には聞きなれないことばであろう。これは、本学会の前身についていた名称である。日本で初めての乳幼児精神保健の学術集会がスタートしてから四半世紀。各地で現場の臨床家たちによる勉強会が誕生し活動を続けている。そんな各地からの風の声を紹介しよう。

・「声高な発信ではありませんが、地域でフォーウインズの種がやわらかくあたたかく蒔かれ、芽吹き育っています」

・「自分がフォーウインズの子どもだとしたら、孫たちが少しづつ誕生しています」

・「地方の街で産後ケアに集う臨床家の勉強会が生れました。消えた名称にちなんで会の名前を“フォーウインズ”と名付けました」

今回紹介した保育現場のエピソードも、直接的にあるいは間接的にFOUR WINDSの学びを基軸にした勉強会仲間との地域間交流の一コマである。全国でもリモートやメールなどを駆使しながら勉強会を続けているところは他にもあることだろう。有事を憂うだけではなく、そこに何らかの意味を探し求めながら臨床活動に携わるとき、「肝胆相照らす仲」ともいえる仲間を持ち、語り合えることの意義は大きい。本学会の広報活動の一環である「風の声を聴く」が、そうした交流のツールの一つとして繋がっていくことを期待している。

「人生の価値は、どれほどの財産を得たかではない。何人のゴルフ仲間を得たかである」(マスターズトーナメントの創始者ボビー・ジョーンズのことば)

これに例えるならば、確かに知識も技術も大切には違いないが、それ以上に何人の臨床仲間を得ているかが意味のあることだと感じている今日このごろである。