風の声を聴く

第6回

2021-08-19

 

私の世界人権宣言

​社会福祉法人鳥取こども学園

理事長 藤野興一

​はじめに

2021年は世界人権宣言制定から73年、子どもの権利条約採択32年、日本国批准27年に当る。この一文は2009年9月に「鳥取市人権文化センター」の「架橋」編集部から「私の世界人権宣言」という素敵なテーマをいただいたものを短く書き直し、加筆したものです。

① 私は1941年、鳥取こども学園(以下「学園))の前身である鳥取育児院の中で生まれ、学園の子どもたちと一緒に育てられた。学園は1906年、キリストの愛の精神で創設され、学園に来る子どもたちは、いつの時代でも社会のひずみの中、差別や偏見や様々な人権侵害によって、小さな体に背負いきれない程の重荷を背負って施設にやって来る。

 

② 学園の子どもは、私の父母のことをお父さんお母さんと呼んでいた。私だけにいつも身近に親がいるということは不便でならなかった。「親がいなければどんなに幸せだろう」と思ったことはしばしばである。その私が高校に進学した時、11人の仲間に申し訳ないと思った。高校に行けたのは親のいる3人だけだったからである。

 

③ 親がいたお蔭で高校に行き、1960年安保闘争の最中に同志社大学に入学し、いつの間にか同志社大学学友会委員長になっていた。高校時代から教会に通い、同志社でもマルクスレーニンを語りながら教会に通った。1970年安保闘争後、賀川豊彦に憧れて、横浜寿町で炊き出しをし、「仕事よこせ闘争」を組織し、「寿日雇い労働者組合」の結成に加わった。これらを支えてきたものは、鳥取こども学園でのキリスト教社会事業精神と学園の子どもたちの仲間になろうとして仲間になれなかった異邦人の様な経験であった。

④ 1976年12月、生まれ育った鳥取こども学園の児童指導員として働くこととなった。

 

1. 最初に取り組んだのは「高校全入と18歳までの養護保障」の取り組みだった。学園では今、高校進学は当たり前で、大学進学、海外留学まで実現している。

 

2.  1979年2月、1歳から学園で育ったMさんが、豪雪の中OB達の必死の捜索にもかかわらず18歳の命を絶った。翌年の1980年12月にも、やはり1歳から学園で育ったK君が大阪のアパートで20歳の誕生日に自ら命を絶った。涙の尽きない夜を明かした中で、誰でもいつでも帰れるOB、OGの家を作ろうと自立援助ホーム鳥取フレンドが生まれた。今では、自立援助ホームは全国に123ホーム486人の青年が暮らしている。20歳までの入所が可能で22~24 歳まで延長が可能となっている。

 

3. 1984年、幼児ホームを解体して幼児を縦割りホームへ分散し、「幼児の集団養護はやめよう」という運動を開始した。

 

4.  施設で暮らす子どもたちの無権利状態を改善するため、先ず当事者の声を聴こうと、1988年鳥取で「第一回全国養護施設高校生交流会」を開催した。1998年第十回仙台大会まで非公式鳥取フォーラムも含めて計11回、参加高校生1311名、アシスタント職員599名、計1910名が参加し、現在の当事者運動に繋がっている。

 

5. 「不登校」が社会問題化し、児童養護施設が使われるようになり、そのありようが問われた。「戸塚ヨットスクール」や「風の子学園」の悲劇もあり、1994年、精神科医やセラピスト等専門スタッフを擁した情緒障害児短期治療施設(現、児童心理治療施設)鳥取こども学園希望館を併設した。

 

6.  1999年、希望館外来相談部門を中心に「児童家庭支援センター」としての認可を受け、そこで「NPO法人子どもの虐待防止ネットワーク鳥取」「子育てSOSネットワーク」の事務局も引き受けることとした。7.更に2006年、鳥取こども学園創立百周年記念事業として、母子愛着トレーニングセンターとしての役割を持った新たなタイプの乳児院(定員15)を開設した。

⑤ 「子どもの人権を守る最後の砦」としての社会的養護施設にもっと光を!と叫び続け、子どもたちと共に子どもたちに学びながら子どもたちの仲間に加わり続けたい。

 

引き続きご支援ください。在主