風の声を聴く

第10回

2022-05-15

 

弱者を切り捨てる社会でひとは幸せに生きられない 

長谷川京子 弁護士 兵庫県 

 

1.世界を覆う「新自由主義」というケチな政治 

1989年にベルリンの壁が壊れてから、資本主義が発展の正解とばかり奢る中、新自由主義が主要国の共通政策になった。新自由主義は、公共政策を可能な限り民間の市場原理に委ね、「小さい政府」を目指してきた。この間日本でも、バブル崩壊後の落ち込みのなか性差別等不合理な差別はそのままに、公共事業の民営化、公共財の民間払い下げ、学校・大学や病院などもうけを生まない事業への公的支出削減、経費削減のための非正規化や労働時間等労働基準の切り下げ、各種安全基準の縮小、教育費の高騰、社会保険料の引き上げと給付の削減などがどんどん進んだ。他方、新自由主義は、国民国家を凌ぐほどの巨大多国籍企業の活動に奉仕する政策だったから、資源や市場獲得のための戦争や戦争に備えた軍備拡張には巨額の国家予算が割かれ、関係事業に積極的に注入されてきた。 

 

本来、国家は、国民の福祉をはかるため、豊かな者からは多く、貧しい者からは少なく徴税し、貧しい者により手厚く給付することで格差を縮小する「再分配機能」を果たしたり、医療や教育など直接経済的収益を上げなくてもそれが人間らしい社会の持続に必要な事業は、必要な維持コストないし将来への投資として財政を投入することにより、安定的に社会を維持する使命があると考えられてきた。しかし、新自由主義では再分配より競争が歓迎される。こういう政治のもとでは、格差が拡大する。普通の人々の生活と生命の再生産は圧迫されて貧困が広がり、少子化がいっそう進む。政治も経営も、人の能力も、経済的収益に換算されて評価され、人々もその価値観を内面化するので、下位の人はもちろん、「一番でない」人もみんな不安やストレスを抱え、孤立し、社会には悲観と猜疑心が強まる。人間はストレスに弱く、格差の大きい社会ほど、貧困な層ほど、健康を保つことは難しく、上位の人を含め寿命が短くなるそうだ。 

 

2.資本の都合と大きな矛盾 

新自由主義は、国境を超え地球を覆うほどに膨張した巨大資本が、さらなる利潤と「成長」のためにとった秩序である。水野和夫氏などによれば、資本主義はかねて辺境から財を集めて利益をあげる活動で、そのためには収奪する辺境とその手段たる武力、消費する人間が不可欠だったけれど、今や、経済が拡大し、辺境が新興国になり消滅してしまった。そういう段階で、さらに資本が「停滞」を避け拡大し続けるためには、「辺境から水平に」ではなく「下から垂直に」吸い上げる方式をとるしかない。それが、「小さな政府」、「公営事業の民営化」、個人の「自己責任」による新自由主義だというわけである。経済は人間が管理できるものを、必要とする人の消費に回すための仕組みではじまったはずなのに、いつの間にか人間社会を支配する秩序にのし上がり、さらには人々を収奪し続ける仕組みに変質してしまった。そんなむき出しの資本主義の展開には、社会主義を標榜するソビエト連邦の破綻も寄与しただろう。ともあれ、競争の激化と貧困の広がりは、個人的利益だけでなく、社会の共同決定の在りかたに意を払う余裕を多くの人々から奪った。 

 

だが、経済は、財が交換されてこそ成り立つ。そしてお金を払ってモノやサービスを消費するのは、生きた人間である。ロボットは人間の労働を肩代わりすることはできても、人間に代わる消費はしない。だから、資本主義というのは、常に成長し続けなければならないが、消費を担う人々からの際限ない収奪は、人間の持続的生存を脅かし、やがて資本主義自体の根を払うことになる。その手前でも発展の方向を見失った資本主義が猛威を振るう新自由主義は、人間や生き物に残酷だし、地球温暖化対策など自然環境との共生や、巨大な消費を人為的に引き起こす戦争を根絶するといった、いのちを守る大きな課題を解決することが難しい。 

 

3.金儲けは生命のケアより尊いか 

思えば、近代の経済が発達した社会では、モノを作り出す労働は「生産労働」と呼ばれ賃金がつくのに対し、自分や家族を癒したり世話をしたり、日々の家事をこなしたり、子どもを産むなど生命の再生産に関わる活動(再生産労働)は、人間が生きるうえで不可欠で重要な活動なのに、無償労働とされ、女性がする価値の低い活動と軽視されてきた。「働かざる者(は)食うべからず」という淘汰の正当化は、人々を差別に括りつけ、生命を軽視する文化を生み出しても来た。「それも食っていくために必要だ」と資本主義社会で何世代もの人々が長く思い込んできたかもしれない。しかし、過去2世紀の間に、一人当たりの所得は10倍に増えたが、世界経済は250倍に膨らんだそうである。苦しいのは働きが少ないからではなく、成果の分配が偏っているからだ、ということである。おまけに「くだらない仕事」が増え、優秀な頭脳が、教師や技術者・研究者から金融業界に流れ、専門職の半数が、自分の仕事に意味も重要性も見いだせないなど、高収入の仕事が社会的価値を生み出さなくなっている。いつまで「食うため」だけに人は働くべきなのだろう。生きていること自体に価値を認められ、同時代を生きる人間の分け前として無条件に基本的な生活費(ベーシック・インカム)を受けながら、各自が価値を見いだす活動 ― それが「無償労働」に分類される活動でも ― に好きなだけ、時間と情熱を注ぐことが許される世界を築くことはできないものか。そういう新世界を構想する人々もいる。富の一極集中が、加速度的に進んだ先に、消費が枯れ経済も終わるかもしれない「失敗」が待つのなら、生命を脇に置いて、不公平な富の分配に縋りつくメリットがどこにあるだろうか。

 

4.我慢を止めて支配的価値を転換する 

日本はバブル崩壊から30年「痛みに耐えて」きた。しかし、我慢するだけでは、いい転換は起こらない。格差拡大によるストレスと不安は、人々の意欲をそこなうというが、それでは、金儲けの後回しにされてきた生命の再生産を守れない。折しも、この夏、参院選挙がある。どの選良候補が、ともに生きる時代を、社会を破綻させる「小さい政府」、競争と格差、弱い者いじめと自己閉塞から、国民の福祉をはかる政府、多元的な活動と協力・共生の時代へ転換するために、新自由主義の実態を見抜き、改めようとするのか、それともなお信奉するのかを見極めようと思う。今春、フランスの大統領選挙は50数年ぶりの低い投票率だったと話題になったが、その割合は72%であった。議員選挙の投票率は、オーストラリア91.9%、ベルギー88.4%、スウェーデンの議会選挙は87.2%だそうである(「日本は100位にも入らず…世界『議員選挙投票率』ランキング」2021.10.24より)。日本の前回参院選挙(令和1年)の投票率は48.8%であった。 

 

戦争特需で立ち上がった経済の高度成長に夢中になり、バブル経済に酔い、破裂後30年間も沈黙し我慢してやり過ごすうちに、日本は、民主主義国家としてのインフラをずいぶん傷つけた。軍事力への憧憬から憲法改正を急げというアドバルーンも目につく。参院選の結果次第では、憲法改正の国民投票を、恥ずかしいコマーシャルの喧騒のうちに進めよう、ということになるかもしれない。今日の小さな選択は、将来の大きな損害を回避し、生活や社会の質を高めることに貢献できる。そのために、心ある人々とつながって、私たちの幸せな社会の構想を練ろう。みんなのための共同決定に、時間とエネルギーの一部を割こう。それに役立つように投票することも大切。私たちの社会のまだ幼い人々、これから生まれてきて、将来を支える人々のために、賢明に行動したいと思う。 

 

(参考文献) 

リチャード・ウィルキンソンほか「格差は心を壊す~比較という呪縛~」(東洋経済新報社、2020) 

水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」(集英社新書、2014) 

ルドガー・ブレグマン「隷属なき道 ~AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働~」(文芸春秋、2018)