風の声を聴く

第14回

2025-11-27


「“あそび”の聲を聴く」
子ども遊ばせ隊 早川たかし


私は自分の“子ども遊ばせ隊”ホームページに密かに「遊び巡礼」というコラムを書いている。今回「風の声を聴く」に何か寄稿してもらえないかという依頼を受け、「“遊び巡礼”を公開してみてもいいかな」という思いに駆られ、執筆を快諾した。


10月17日(金)夕方5時、私は弘前駅に降り立っていた。
えっ! なぜ? そこに?
次の日の10月18日(土)に、私は弘前市保育研究会・「医療と保育の連携特別委員会」の企画で、「遊びのワークショップ」付き”子育て支援講演”を行うことになっていたからである。
私は遠方に伺うときはサービス精神が旺盛になり、“講演”だけでなくついでに「遊びの授業(保育)」や「親子遊び」なども “ボランティア”(謝礼はなし)で、逆に私が依頼して企画してもらう。これが結構喜ばれるのである。今回の日程は午前中に市内のM保育園で「あそびの保育」(年長児20人)。午後の第1部は“ボランティア”企画で「親子ふれあい遊」(市民公募 親子20組)。そして本命の第2部の講演は「大人もおなかいっぱいあそぼ! ~大人にこそ大切な遊び力&こども力~」(市内保育士50名)となっていた。
全てのスケジュールが終了した後には74歳の老体には3講座はきつかったようで、声が嗄れていた。ふと不安がよぎった。実はこの講演の後にも、10年来懇意にしている宇都宮にある学校法人「S幼稚園」で、職員研修や親子遊びなどをすることにしていたのだ。私は急ぎ新青森駅から新幹線に乗った。幸いにも翌日、私の声は回復した。


そんな私に疲れに代えがたい「喜び」が待っていた。それは受講者の方々の「感想レポート」である。20日の朝早くに、1通の感動的なファックスが富山の自宅に届いていた。(そのころ私はまだ宇都宮で、S幼稚園での最後の仕事(けん玉教室)をするために眠い目をこすっていた。)送信者は弘前の保育士T・Yさんからだった。
「保育士なのに子どもたちと遊んでいる最中にも、“書類”や“活動計画”など仕事のことで頭がいっぱいになり、つい子どもといることが上の空になってしまうことが、多々あります。しかし、今回の皿回しやつつけん玉で遊んでいるときは、それだけに集中して遊ぶことができました。長い間、こんなに集中して遊ぶことがなかったので、遊んでいる自分に驚いていました。私は保育士であり、2児の母であり、そしてシングルマザーでもあります。家庭のことをやっていると、子どもの遊びの誘いを後回しにしてしまうこともしょっちゅうです。子どもが寝た後に、「もっと一緒にあそべばよかったな!」と毎日思っているにもかかわらず、次の日もその次の日も、同じことを繰り返し、気づけばわが子たちはYouTubeやゲームにはまっている始末。しかし、今日の研修を通して改めて子どもと同じ目線で、同じ気持ちで楽しむ大切さを学ぶことができました。今日からでも遅くはない!と思うので、家に帰ったら子どもと一緒におもいっきり遊ぼうと思います。今日はお忙しい中 ありがとうございました。」


私はこのレポートを、夜遅く帰宅した次の日の朝、自宅の寝室で寝ぼけ眼で読み始めた。(同居している長女がファックスが私にとって「大切なもの」だと知っていて、受けとってすぐ寝室のテーブルの上に置いたのだった。)
T・Yさんが、過酷な労働条件や家庭状況の中で、「遊び力&子ども力」という実践的理念を心から理解してもらえたことのうれしさが込みあげてきた。そしてなによりも、彼女がレポートを講演後すぐに書き、週明けすぐに、私にファックスしていたということだ。彼女はその気づきと学びを、矢も楯もたまらず、私に伝えたかった!「辛かったけど 私は保育士として生きている! 二児の母としても生きている! これからはもっと子どもたちと遊んで保育して生きていこう!」と、保育士として母としての懊悩と希望を、見ず知らずだった一介の老講師である私に語りたかった。そして聴いてほしかったのだと思う。そう想うと、知らずに涙がこぼれた。
職場や友に、彼女の苦しみや悲しみを聴いてくれるひとはいないのだろうか。子どもを育てる喜びを感じ生きがいを感じることができる「仕事」現場になぜ「幸せ」がないのだろう? 彼女の無意識のむなしさをどうして聴けないのだろう。そして、最後に「今日は お忙しい中 ありがとうございました」と結んだ言葉の中になぜか彼女の心の「神聖」さを見た。


私は翌日、講演を企画していただきお世話になった方々に、お礼がてら電話をした。彼らにこの感動を伝えたかったのである。そして私はT・Yさんとも保育園への電話で再会することができた。「前列の右のほうにいた茶髪が私ですよ。覚えていますか」と明るい声で、あっけらかんとした声で、通信への引用について了解していただいた。 コラム「風の声を聴く」の原稿を書きながらも、私は「遊びって何だろう」と自分にとってしっくりいく言葉で表現し、語れないものかと、子どもたちやその周りにいる大人たちと一緒に遊びながら、探り続けてきた。
T・Yさんのレポートがなぜ心を打つのか?
それは、彼女が自らの心の奥にあった「遊びの聲」を素直に聴くことができたからだと思う。その「遊びの聲」が、私の遊びのワークショップによって、呼び覚まされたのだったら嬉しいことだ。「遊びの聲」は、幼かったころの体験や思い出にじっと心の耳を澄まさないと聴こえてこない。今の暮らしの中はヒトが豊かに生きるために大切な「遊び」を疎外し阻害することだらけ。大人にこそ「遊びの聲」が聴こえる「聴き耳頭巾」をと思う毎日である。 さいごに。「この里に 手まりつきつつこどもらと 遊ぶ春日は 暮れづともよし」(良寛禅師)こんな境地に至りたいものである。


追伸
その後、T・Yさんに“原稿料”として(笑)皿やサソリをプレゼントした。子どもは男児2人ということだったが、「いっしょに遊ぶ」ことを通して、甘えるようになったり、兄弟げんかも少なくなったとのメールが届いた。


“遊ばせ隊”のホームページのコラム「遊び巡礼」には弘前編に続いて、宇都宮編を載せています。どうぞ覗いてみてください。